もう30年近く昔、筆者が20歳ごろの話です。
バブルが弾けたか弾けるかの頃でした。
筆者はそのころはまだプログラマーだったのですが、昭和から平成に変わった直後。 (コンピューター関係はみなプログラムを変更して平成に対応しなければなりませんでした)
消費税3%が導入された直後。 (もちろんレジやら販売管理のソフトはみな3%計算を導入しなければなりませんでいた)
システムエンジニアは無茶苦茶忙しかったのです。
東京で研修の日々
そんな理由でIT業界は常に人手不足、人が足りないという理由だけで2社目に引き抜かれたぼくは、東京で6ヵ月にわたる研修をおこないました。
寮、といかアパートは事前に借りてあり、埼玉県の北越谷という所に住むようになったのです。
北越谷そのものはド田舎でしたが、東京までは地下鉄ですぐ。
修学旅行以外で「初めての東京」ということで、いろんな所に興味深々で遊びに、というか見学しにいきました。 おのぼりさんそのものです。
六本木に行こう、そう思った
研修先というか職場は、越谷から南へ北千住を経由して、茅場町というオフィス街(確か)。
越谷からは電車に地上から乗りましたが、北千住かそのあたりで地下鉄日比谷線になります(確か)。
日比谷線は、そのまま六本木へ直通でした。
驚いたのは、ただの普通の交差点で男性2人組が女性2人組をナンパしたりしている光景。
街中ナンパというのでしょうか、田舎の広島では考えられないことでした。
東京はなんとスバラシイ!!
筆者はナンパにあこがれます。
ナンパできるようになりたい。
あさはかな中2病の20歳男子はそう考えます。
ナンパといえば六本木。六本木に行こう。そう思いたちました。
六本木に朝まで飲むため金を貯める
給料をもらったら、日々の生活費、光熱費、食費などを別々の封筒に入れて管理していました。
毎週土日、始発で帰るため、六本木で朝まで飲みにいくにはどうすればよいか。切り詰められるのは食費です。
外食やコンビニ弁当を一切やめて、自炊をはじめます。
まだ難しい料理はできなかったので、ひとり鍋やひとりすき焼きをして食べます。
どれも、鍋(小)に具材を放り込むだけなので簡単ですね。
ひとりすき焼きだなんて贅沢じゃないか、そう思われるかもしれませんが、すき焼きの余りを次の日、すき焼き丼として弁当にし、さらに余ったら、晩飯にもう一度食べるのです。
一食分の食材で3食まかなう、そうやって金を貯めていきました。
切り詰めるだけ切り詰めて食費を浮かし、それを飲み代にあてたのです。
六本木で朝まで飲みまくる
よく待ち合わせをした六本木アマンドですが、この写真は昔と違うな・・・・・・
金曜日、当時は花の金曜日、「花金」と呼ばれていました。
たまたま東京にいた中学の同級生を誘って、いざ六本木へ出陣。
バブルが弾ける寸前か、弾けた直後のころでした。
六本木アマンド、ディスコ、アッシー、メッシーの時代
かの有名な六本木アマンド前で待ち合わせをします。
当時、まだ携帯などはなく、調べようがないため、行き当たりばったりで店に入りました。
六本木カローラ
六本木のメイン通りには、まだ六本木カローラがごろごろ走っています。
(BMWの3シリーズのこと。六本木にはトヨタカローラのごとくBMWがいたため、そう呼ばれていた)
バブル直後なので、まだアッシー(足だけに使われる悲しい男)とかメッシー(食事だけおごらされる悲しい男)がたくさん残っていました。
ディスコがだんだん消えつつあり、代わりにクラブ、DJバーか増え始めた頃でした。
マハラジャという有名なディスコはまだかろうじて営業していました。
当時有名だった、クラブ・サーカスを発見したので、入ってみます。
その頃M.C.ハマーが大ブームであり、それを4人組のアフリカ系アメリカ人がコピーして踊っていました。
まだ岩国基地に通う前、外国人が踊るのを見るのは初めてだったため、本物のダンスに衝撃を受けました。カルチャーショックでした。
六本木でナンパは当然
六本木のクラブの女の子は、ナンパされるのが当然とういったふうで、いくらでも話はできました。話をする、という体験はどんどん増えていきます。
だが「お持ち帰り」には程遠いさまです。酔いもあり、とにかく女の子に声をかけまくり、経験値は増えます。
しかし、電話番号をきけなかったりと失敗ばかりでしたが、この技術は帰郷した広島で開花することになります。
朝まで六本木で飲む
クラブをはしごし、たまにはディスコに行き、ナンパに失敗し、朝べろべろになるまで飲み、駅のホームで仮眠し、朝5時ごろの始発で家に帰っていました。
青年時代は、六本木、六本木、六本木で泥酔まで飲む。毎週土日、くりかえしていました。
アル中になるハズですね。六本木の体験談でした。
まとめ 六本木のクラブやバーで朝まで飲みまくってナンパした体験談
20代、六本木で朝まで飲みまくっていたころは、とにかくお酒が楽しかったです。
アルコール依存症になってしまってからのように、飲酒欲求に追われて飲むのではなく、楽しくお酒を飲んでいました。
このまま健康的にお酒をたしなんでいれば、アルコール依存症にはならなかったと思うと悔やまれます。
今、若い方は悪い酒ではなく良い酒の飲み方をしてください。